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リーダーシップの旅に出ている彼。 『社会の役に立ちたい』 もがく、とある日本の若者。不定期に書評とか戯言とか。

リーダーシップとは何か(1/2)

唐突ではあるが、リーダーシップとは何か。

リーダーシップは、海外の大学・大学院ではそれ単独で単位があるくらい、

体系化されかつ重宝される人間的要素である。

 

これからの自分を考える上で、考えをまとめてみたい。

 *長いので、前半後半で分けてみる。

 

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 1、リーダーシップとは何か

 2、リーダーシップに対する誤解

 3、リーダーシップを身につける

 4、リーダーシップを身につけた先に待っているもの

1、リーダーシップとは何か


 世の中では、リーダーやリーダーシップという言葉が様々な使われ方をしている。

リーダーシップという言葉だけとってもまずその定義が難しい。

というのもこのリーダーシップという言葉が昨今、変容していると感じる。

以前は「組織を率いる人物に求められる組織統率力」というイメージがあった。

現在では、これに加えて「組織に所属するどの人物にも求められる主体性を持って仕事を進める力」という範囲までリーダーシップの定義が広がったと感じられる。

以前はリーダーシップを求められるのは一部の人であったが、現在はすべての人にリーダーシップが求められているのではないだろうか。


 過去のリーダーシップ論を遡って見ても、ウォレン・ベニスから始まり、ジムコリンズの『ビジョナリー・カンパニー』シリーズ、世界的哲学書である『7つの習慣』の著者であるフランクリンコヴィーやジョン・P・コッターのリーダーシップ論は、あまりにも有名である。

彼の言っていることは常に入れ替わっているかというと、決してそうではない。

また彼らは、リーダーシップとマネジメントを大別し、それぞれの特徴を整理している。

彼らの論文は今もなお企業活動において重要な考え方・通説として使い古されているし、今もなお多大な影響力を持ち続けているのは事実である。

 

前置きはさておき、リーダーシップとは何か、という問いに答えたい。

野田氏の言葉をそのまま借りると、リーダーシップとは「見えないものを見る旅」と言っている。

ある人が見えないものを見る。見えないものとは、現実には存在しないビジョンや理想。

そして、ある人は、その実現に向けて行動を起こす。著書では、村の外にある誰も渡ったことが無い「暗い沼」と表現されている。そこを渡ると、何があるのか、何が見えるのか、最初にそれを強く心に思った人。

つまり、「見えないもの」を見た人が、その気持ちに強く動かされて、暗い沼を渡り始めていく。

それが、リーダーシップの旅の始まりであり、その旅は、孤独な状態から始まる。自らの内なる声を聴き、それに動かされて自ら行動を選択し、行動を開始する。

人は、結果としてリーダーになっていくにすぎない。

リーダーは単なる役割であり、結果である。

しかし、沼を渡り始めた時点では、リーダーではない。


そんなリーダーの成長の過程としては段階があるとも言っている。

その段階を3つに分けており、
 ①リード・ザ・セルフ(自らをリードし)
 ②リード・ザ・ピープル(人々をリードし)
 ③リード・ザ・ソサエティ(社会をリードする)
と提示している。最初は、自らをリードする。

自分の心の声に突き動かされての行動している様を指している。

つまり、リーダーは、最初はリーダーではなかった。という事である。

裏を返せば、誰もがリーダーになる可能性を持っている。

もっと柔らかくいうと、リーダーは誰にでもなれるし、リーダーになる為に持っておくべきリーダーシップも、誰しもの中に眠っている。

但し、そのリーダーシップを自らが感じられるかどうかは、自分の考え方・行動の仕方によって大きく左右される、ということになる。

野田氏は「リード・ザ・セルフから始まるリーダーシップの旅は、一人では貫徹できない」と言っている。リーダーシップの旅の道中「このひとにならついて行きたい」というフォロワーが付いてくる。フォロワーは、その人に対して共鳴、共感、賛同を感じて、ついていく。

暗い沼を渡っている、その人が後ろを振り返った時、フォロワーの存在を知ることになる。その結果、沼を渡って「見合ないもの」を見る。その夢の実現に向かっていく過程で、夢が、自分からフォロワーへと共有化・同期化して広がり、自分の夢が、みんなの夢になっていく。そのフォロワーに共鳴、共感、賛同を得るには、戦略的思考、コミニュケーションスキルを磨く前に「魅力的な人間」であることが必要になる。この魅力的な人間になるための資質が、世に言う「リーダーになるためには」と言われる経験や技術のことを指すのだろう。すなわち、リーダーシップの旅は、究極の資質「人間力」を磨く旅といえる。

それでは、その人間力を磨くにはどうすれば良いのか。それについては、この後の章でまとめいきたい。誰にとってもリーダーシップは体感することができるものである。そして、そのリーダーシップを自分の身体が感じるためには「旅」が必要である。このことを前提にリーダーシップを考えていきたい。

 

余談ではあるが、最近私の周りでこの「リーダーシップとは何か?」という問いを考える機会がいくつかあった。

ひとつはNHK「リーダーシップ白熱教室」を夫婦で見たこと。この番組は、ハーバード大学ケネディスクールでの30年間続く人気教授の「リーダーシップ論」を公開録画しているものである。リーダーシップとはただ、実行することであると説いている。問題が発生すれば、その問題を抱えた人や事象と正面から向き合い問題のプロセスを探究し、答えを探し、実行する。立場が社長であれば、組織機能の問題に対して役員や幹部から問題の状況を聞き、ディベートする。問題の根本をとにかく掘り下げる。リーダーシップは物事の問題を解決するために自分や人々を牽引すること。「リーダー」という立場の人が率先してそれを行う思考をすれば良いのと同時にその周囲の人も、問題に対してリーダーシップを発揮しなければならないと言っていた。逆に、リーダーの立場の人間がそれを行っていないとするとその組織のリーダーは役割を発揮していないことと同等である。指示することや威張ることはリーダーシップとは何の関係がない。発言力があったり、権威があるからといってそれはリーダーシップではないと。夫婦でこの番組を見て、それぞれのリーダーシップ体験を考え、互いのリーダーシップ行動を共有しあうことができた。

 

もうひとつの機会は、他社の同世代の友人たちと宗教とアメリカ大統領の話について語り合っていたときだ。だいぶ濃い語り合いをしていたのだが、その中で「宗教社会におけるリーダーとは誰なのか」について会話が及んだ。その場でおもしろかった結論の一つに、現代のリーダーは「優秀な羊」であるとしたことだ。欧米や中東などの一神教世界の人びとにはとっては自明のことらしいのだが、彼らにとって理想のリーダーは本来「よき羊飼い」である。荒野で羊を牧する羊飼いと、人民を治めるべきと神からその使命を与えられたリーダーは、彼らの中で同一視されている。「羊」は「羊飼い」に率いられるべきものであり、いくら優秀であっても「羊」は羊であって「羊飼い」にはなれない。つまり羊は「本質的なリーダー」にはなれない。しかし、未来のリーダーであるべき自分たちは、本質的なリーダーである羊飼いではなくて「優秀な羊」であることを前提にリーダーシップを学ばなくてはならない、と思っているようだ。要は、リーダーシップを最初から選ばれた羊飼いにすべてを任せる時代は終わった、ということを言っていた。宗教とリーダーシップを絡めると話はさらに奥深くなり、議論の余地は更に広がっていくだろう。

 

しかし、宗教によってリーダーシップの捉え方が違い、そもそもの価値観が仮に大きく違っていたとしても、リーダーシップを発揮できた時、それをも凌駕して目的を達成できているはずである。

 

少し前の話ではあるが象徴的な話は、アメリカ合衆国第44代大統領のバラク・オバマ氏の話を振り返ってみたい。大統領選挙当時2008年頃のアメリカは熱狂していた。オバマ大統領が人々の心をつかみ、強大なリーダーシップを発揮できるのはなぜなのか。その答えは、オバマ大統領が民衆に対して「共感」を呼び起こすからにほかならない。「Change!」「We can!」というキーフレーズとともに、人種や宗教観という大きな壁を越えて、当時の停滞したアメリカを立て直す希望をアメリカ国民は見出していた。政治家というのは国民の代表であり、国家の反映とともに国民が安心し、快適に暮らせる国を作るための仕事を担う人である。そのトップに立つ人は、国民の総意を常に理解して反映させるとともに、長期的に国を発展させるために国民から理解を得なければならない。

 

当時、アフガン・イラク戦争、住宅・金融危機、人種・貧困・格差問題などオバマ新大統領が向かおうとしているアメリカ社会は多くの問題を有していた。アメリカ合衆国のトップである大統領は、3億人もの多種多様な人々の声に耳を傾け、その期待を一身に背負い、率いていく強大なリーダーシップが求められた。

 

ケネディ大統領以来と言われる高支持率を背景には、彼の能力や実績もあるが、やはり自分の生れ育ちを悩み抜き、成長してきた人格、まさにリーダーシップによるのだろう。オバマ大統領は自身の生い立ちからも、多くの人の共感をあつめていたという。黒人の父と白人の母の間に生まれ、インドネシアで育ち、ハワイ・NYで学び、シカゴで働いた体験は、必然的に自分のアイデンティティを問い続け、他者への共感を育んだのだろう。少なくとも私は、多くの考え・価値観があることが足かせになっている状態、結束が必要な当時のアメリカ政治を彼に任せたいと思うだろう。人種や宗教など、複雑な環境で育ったからこそ、人種や宗教にとらわれない素晴らしい演説が行われたと言われている。

 

国のリーダーとして国民からの支持を得るためには、国民の目線に立ち、国民が望んでいるものは何か深く理解し、実現に向けて具体的な政策をわかりやすく伝えることが必要になる。そしてリーダーとして、将来国はどのように発展すべきか、安心して暮らしていける明確なビジョンを伝えることも求められる。そのためには、信念や価値観から、日常の生活環境にいたるまで、役割としての一貫性をもたせなければならないはずだ。見かけだけ、演技での役割を担うだけであれば、一貫性を保ち続けるには限界があろう。自分の心の底から、身体の芯から、その価値観で生きてきたことが滲み出ることが絶対条件なのだろう。それらを見た国民は一人ひとり考える。この人がその役割として任せるに値するリーダーなのかと。

 

オバマ大統領は、「CHANGE」という一言に集約させることで、国民一人一人が「変化を望んでいる」ということに意識を集中させた。当時の国民が望んでいることを、象徴する一つのフレーズにまとめることで、国民の共感を得ることに成功した大きな例と言える。オバマ大統領は、これから述べていく中でまとめていきたい、理想のリーダー像に最もマッチした人の一人である。

 

2、リーダーシップに対する誤解 

 

言葉の定義はある程度していくものの、使途があやふやな分、世間では多くの使われ方をするリーダーシップというこの言葉。リーダーと言われた時に想像される人間像も、多種多様になる事が安易に想像できる。ドラッガーはリーダーシップに特化した著書を過去には出していない。彼の著書『マネジメント』の中で「リーダーの性格やリーダーシップ・スタイル、リーダーの特性などというものは存在しない」と明言し、リーダーの基本的特性の共通項を探し出すことなど不可能だと考えていたという。だからこそリーダーシップそれ自体で著書にしたためていないわけだ。それくらいリーダーシップの言葉の定義は、難解かつ複雑なのである。
 解釈が分かれ、誤解が生まれているリーダーシップという概念に対して、ひとつひとつ私なりの解釈を見出していきながら、リーダーシップの根本に近づいていきたい。

①「リーダーシップはトップのものである」という誤解
 リーダーシップが「トップや上位者にのみ求められている」という考えが存在する。多くの場合、私たちはリーダーという言葉を、ボスと同じ意味で使っている。リーダーシップとは権威の象徴や、それによる人間の優劣をつけるものだと思っている我々日本人は多い。
 しかし、トップにとって必要な要素として、リーダーシップは必要条件ではあるけれども十分条件ではない。リーダーシップがなくても組織のトップになることは多いのが事実である。『モチベーション3.0』の著者ピーターセンゲも「リーダーシップとは、タイトルや役職とは全く異なるものです。私は、リーダーシップという言葉の使われ方に、大いなる誤解があると考えています」と言っている。確かに組織の中でピラミッドの上に行けばいくほど,リーダーシップを発揮しやすい条件と裁量を与えられているから,リーダーシップがあるのが当たり前だからこそ、リーダーシップを発揮していないトップも目立つのだろう。
 おそらくこの誤解は、リーダーシップという言葉の語源が生んでいることもあるだろう。
文字通りの意味で言えば、英語の「Lead」という動詞は、「導く」という意味を持つ。日本語的にいうと「先導する」つまりみんなをリードする、となる。まさにトップでみんなを引っ張るという姿を想像できる。この「Lead」という言葉は、インド・ヨーロッパ言語を語源としているようだ。それが「Leith」という単語である。そして、その意味が「立ち上がり、一歩踏み出す」「境界線を越えて足を踏み出すこと」である。これがリードするという言葉の歴史的な意味である。言葉の意味をたどっても、この誤解が意味をなさないことが言える。

②「リーダーシップは他人を管理するもの」という誤解

上記①のイメージからも想像されるのだが、リーダーシップは誰かをまとめるためのもの、他人を管理するためのもの、というイメージを持っていることも多いだろう。いわゆるマネジメントと同じ意味合いで使われることが多く、リーダーシップを持つ人は、他人を管理する能力に長けており、他人をまとめる立場になる。他人を管理するためには、リーダーシップを持っていないとならない。そんな誤解であろう。実際、リクルートの営業職においても、グループマネージャ〜という管理職の下の職位に「リーダー」遠き、プレマネージャー的な意味合いで役職を置かれている。
 リーダーシップとマネジメントの考え方を、区別していく過程でこの誤解は解けるだろう。先のコヴィー氏は「ほとんどの組織は、マネジメントのやり過ぎ、リーダーシップのなさ過ぎである」と言っている。つまりマネジメント過多であると揶揄している。コヴィー氏としては、リーダーシップとはどちらの方向に向かって進むのかという方向性を指し示すことであり、マネジメントはその指し示された方向に向かって、能率・効率よく、管理・コントロールしていくことだと定義している。またコヴィー氏は、個人のリーダーシップに関して「多くの人たちは、梯子に登り始めて、それが掛け違いだったことに気づく。つまり、どこに梯子をかけるのかというのが私たちの中のリーダーシップであり、その梯子を能率・効率よく登っていくのがマネジメントの役割である」と説明している。多くの組織は、梯子の掛け違いに気づいていたとしても、そこには我関せず、いかにその状態で物事を効率的にクリアしていくか、しか考えていないというわけだ。よくいう枠の中で答えを探す正解主義的な意味合いに近い。そこにはリーダーシップは存在しない。マネジメントを行う立場の人間としても、自らビジョンを示したり、ビジョンを策定するよりも、与えられた目標をいかに振り分けながらやっていくことの方が多いと感じているのではないだろうか。
 このように考えると、マネジメントをする上で、リーダーシップは重要である一方、リーダーシップを発揮する上でマネジメントスキルの有無は大きく影響しないように見える。確かに、リーダーシップを発揮している瞬間やその場は他人への影響を与えていることは確かである。しかし、リーダーシップの本質は他人への影響力である前に,自分への影響力である。自分は何をするためにそこにいるのか,そのために何をしなくてはならないのかを,自分の頭で考えているかどうか。これに尽きるのではないだろうか。

③「リーダーシップは才能である」という誤解
 リーダーシップの能力・スキルは先天的なものである、という考え方はどこからともなく現れ、当たり前のような考え方として居座っている。きっとそれはいろんな誤解や、見えている現実が混ざり合って生まれた齟齬なのだろう。確かに小学生の頃から、リーダーシップを発揮している子供がいることも確かであるし、小さな頃から自らリーダーとしての役割を担い、その経験を踏んできた人はリーダーシップの本質に気づき、能力や習慣として会得していることもあるだろう。だからと言って、リーダーシップは生まれつきの才能である、と整理をしてしまう人は、リーダーシップの能力・習慣を身に付ける努力を放棄しているにすぎないと、私は考えている。例えば、ビジネススクールには「リーダーシップ」という科目がある。リーダーシップは生来の素質や才能ではなく、習得していくもの、もっというと突き詰めて考えていくこと。うまく組織を牽引して成果を出せなかったとしても、それは役割としてのリーダーに向いていないのではなく、単にリーダー経験の不足や突き詰めて考えられていないと反省すべきなのだろう。リーダーシップは後天的に会得できるものであり、概念を学ぶことで実践できることなのである。
 自分にとって、リードすべき方向はどちらなのか、そもそも自分は社会の中でどんな存在なのか、どんな存在になりたいのか。仮に、これらを考え続けることができるのであれば、才能なんて必要なくリーダーシップを発揮することができる。

 リーダーシップの先天性を語るときに、もう一点考えてみたいのが「カリスマ」という概念である。1920年代の社会学マックス・ウェーバーが提唱したカリスマという概念は、それ自体は、異常な個人が備えた天与の資質のことを指す。さらにカリスマ的支配という概念も提唱し、その資質を持つ個人に人々が情緒的に帰依することによって成立すると、社会支配形態を、合法的支配、伝統的支配というものと並列で語っている。
 なぜカリスマの話をしたかというと、リーダーシップというとどうしてもカリスマ的な要素を持っている人を期待し、心待ちにしていることも少なくはないということである。将来のビジョンを描く資質がリーダーに求められる時代になって出てきたときに登場したのが、カリスマ的リーダーシップ理論である。神から授かったような超人的な才能を保持する人間こそがカリスマ型リーダーであり、その才能を保持することで、リーダーは部下から大きな服従心を得ることで、問題をバッサバサ解決していく。

 確かにカリスマは危機を乗り越える強い力を持っている。しかし、本当に必要とされるリーダーは、時代によって変化するはずだ。リーダーだけ変化しなくていいわけがない。だからこそ、これからリーダーシップを語るときは、決してカリスマの存在だけを指しているわけではなく、リーダーのひとつの形・断片として捉えた方が、理解も進むだろう。

 

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 ここまで、世の中に蔓延しているリーダーシップに対する誤解に対して、自分なりの解釈ではあるが概念の整理をしていく中で誤解を解消していった。リーダーシップの概念を理解したうえで、リーダーシップの身につけるために必要なことを考えてみたい。

 

後半へ続く: 

リーダーシップとは何か(2/2) - Someone Like You